『剣と紅 戦国の女領主・井伊直虎』 高殿円 感想&考察 ※ネタバレ注意
高殿円による遠州の女地頭・「井伊直虎」を題材とする小説、『剣と紅』(文芸春秋)の感想&考察記事です。本の内容や史実についてのネタバレを含みます。ご注意ください。

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「おんな城主直虎」を近頃ずっと視聴しています。ドラマをちゃんと見るのは数年ぶりですが、毎週面白くて楽しみにしています。信じられないことに最近は日曜日の夜が待ち遠しく、月曜日のモチベ的な意味でも助かっています。
ガッツリはまったので井伊直虎の関連本を探したところ、『剣と紅』にたどり着きました。これがなんというか、面白かったです。歴史小説としても人間ドラマとしても。理屈抜きで「あ~これめっちゃ好き~」と感じる本がたまにあるのですが、『剣と紅』はまさにそれでした。
『剣と紅』の印象を一文にまとめるなら、「主人公・直虎の特殊な設定と井伊家や小野家の伝承を絡め、複雑な人間模様をスパイスに、歴史のリアリティーと中世日本的なファンタジーをバランスよくまとめた小説」です。
派手な合戦シーンはなく、ストーリーはわりあい淡々と進むものの、伏線が細やかに張られていて読みごたえがありました。戦国時代の領地経営や寺の役割、女性の生き方に焦点を当てるなど、総領娘として生まれて尼となった女性主人公ならではの切り口がユニークです。
『剣と紅』の主役は、井伊家の男たち……ではありません。それもそのはず、井伊家の男たちが次々と命を落としてしまうからこそ、女子であり尼である直虎が表舞台に立たざるを得なくなるのです。
実際のところ、『剣と紅』の特に後半は、主人公の「直虎」および井伊家の宿敵とされる「小野政次」の2人を軸に進むと言ってもいいと思います。滅びゆく井伊の男たちを挟み、井伊家の存続を望む直虎と井伊家を絶やさんとする政次が静かな攻防を繰り広げるのです。
その2人とて歴史の流れに抗いがたく押し流されていくものの、やがて直虎の宿願は叶い、井伊家は直虎の養子・虎松(のちの井伊直政)によって大いに栄えることになります。
直虎と政次の関係性は、『剣と紅』のユニークなポイントの1つです。小野政次といえば諸説あるものの、井伊家に刃を向けた奸臣として扱われることが多い人物です。この小説での政次も、ある時点からは井伊家のすべてを奪い尽くそうと暗躍します。残った井伊家の家臣に憎まれ、寡婦となった女性たちに恨まれ、井伊家にとっての宿敵のような存在になっていくわけです。
井伊家の最後の希望である虎松の後見となり、一時的に家督を預かった直虎にとって、政次は油断ならない敵でしかありません。実際、彼女はそのような認識のもとで淡々と政次と渡り合いました。
しかし、実は直虎は、仇に向ける憎しみとは異なる感情を政次に対して抱いています。そもそも直虎は政次の求婚を拒んで出家しましたが、彼自身を嫌ったことはなかったのです。その印象は、政次と敵対するようになって以後もついぞ変わることはありませんでした。
相手への理解があり、共有する思い出があり、奇妙な縁があり……と当人たちだけの不思議な関係で結ばれているものの、それでも敵同士。ままならぬ2人の関係性の複雑さは、露骨に提示されないからこそ『剣と紅』に絶妙な陰影を与えるものになっていたと思います。
個人的に、『剣と紅』ハードカバー版の表紙がすごく好きだったりします。この表紙の直虎は、刀と言ってもいいような剣で断髪しているんですよね。おそらくこの表紙絵は、作中のある重要な場面を描き起こしたものだと思います。
その他、直虎に巻き付いている白いものや隅にひっそりと描き込まれている橘紋の紅箱にも目を引かれます。読み終わってから全体を眺めると芸が細やかでくぅ~っとなりました。目の据わった直虎の凛々しさもソーグッドです。
しかし、作中の直虎の外見描写を考えると、『剣と紅』(文庫版)の表紙の童女っぽい顔立ちの方がそれっぽいのかもしれません。
以下、『剣と紅』のネタバレを含む詳細な感想・考察です。ガッツリとネタバレをしています。未読の方や「大河でまだ放映されていない史実部分を知りたくない」という方は十分にご注意ください。
『剣と紅』のあらすじ
最初に、『剣と紅』のあらすじを書きます。『剣と紅』の物語を始めるのは、井伊直虎の養子であった井伊直政です。主君である徳川家康に乞われるまま、彼は数奇な運命をたどった養母の人生を語り聞かせます。
主人公・香(かぐ/のちの井伊直虎)は、500年以上続く井伊家の総領娘として生まれました。赤ん坊の頃、名僧に「天下を動かす」と予言された彼女は、生まれつき不思議なものを視る目を持っていました。その目は彼女に少し先の未来に起こる事柄(たいていは凶兆)を伝えるのです。
疫病の発生や堤の決壊を言い当てたことから、幼い香は「井伊谷の小法師(=遠州における座敷童のような存在)」と呼ばれ、井伊谷の領民や井伊家の人々の信仰の対象となっていきます。井伊家の祖が捨てられていたと伝わる井戸、その傍に立つ橘の木の化身ではないか……と無邪気に有り難がられていたわけです。
その力のために寡黙な女子に育った香は、人の妻となり子を生めばこの力はなくなるだろうかと考えもします。天文13年の冬、香はじきに髪を上げ(成人し)、同じ一族の人間で同い年の亀乃丞と祝言を上げる予定になっていたからです。
しかし、「井伊家を永遠に栄えさせる橘の霊薬(=古事記の“非時香菓”)たれ」という意図で「香」と名付けられた彼女は、人並みの人生を歩むことはできませんでした。
叔父2人が今川氏に誅殺されたことにより、香と亀乃丞の運命は一変します。事件の直接のきっかけとなったのは、今川の目付家老である小野和泉守政直でした。父を失い自らも命の危機にさらされた亀乃丞は、信州へと落ち延びることになります。2人がわずか9歳のときの出来事でした。
かくして許婚を失った香ですが、その立場上、生死すら分からない亀乃丞をいつまでも待ち続けるわけにはいきませんでした。事件から5年ほどが経過し、髪上げをして子を生める体になった香は、井伊家の跡継ぎとして婿を取る必要に迫られたからです。
ここで香の縁談相手として浮上したのは、香より6歳年上の小野家の嫡男・政次でした。父以上の豪胆な切れ者と噂される政次は、井伊家への野心を燃やす一方、昔から香の超常的な力と聡明さに並々ならぬ関心を抱いていました。もし香との婚姻がかなえば、彼は欲しいものを2つ同時に手に入れることになるわけです。
着実に外堀を埋めていった政次は、今川の太守(=今川義元)の下知まで取り付けた上で、香に輿入れを要求します。嫁入り道具一式のほか、亀乃丞が消えた夜に告げたとおり、香のために橘の実の意匠をあしらった紅箱まで持参するという用意周到ぶりでした。
今川の目付である小野家との結婚は、家同士の縁を強固なものにするという意味でけして悪い話ではありません。現に、香の母の安佐は、同じく目付である新野家から井伊家に嫁いだ女性です。また、香自身も、幼なじみの政次と夫婦になること自体は不思議と嫌ではありませんでした。
しかし、彼女の小法師としての直感は、政次のそばにいつも漂う「白いもの」をよくないものだと見なします。その結果、井戸のそばで求婚された香は、政次を強く拒むに至ります。そして、背後に立つ橘の木の意思に操られるようにして、剣を手にとり剃髪してしまうのです。
かくして香は16歳にもならない若さで出家し、父母のせめてもの願いを聞き入れ、「次郎法師」を名乗ることになります。
それから数年後、無事に亀乃丞が帰還したことで井伊谷は喜びに包まれました。元服し「直親」と名乗るようになった彼は、奥山家の娘を妻に迎えます。
かつての許婚と添うことはもはやできなかったものの、香は父のない直親が婚姻によって後ろ盾を得たことを静かに喜びました。直親の妻の妹は、家老の小野政次の弟に嫁していたため、直親は敵対する小野家とも親戚関係となったのです。「自分にも井伊家にもこれ以上の祝着があるだろうか」と香は心から思い、直親のもとで井伊家が末永く続くことを祈ります。
しかし、その頃遠州を襲おうとしていた荒波により、香の祈りははかなくも押し流されていきます。井伊家の存続を揺るがす端緒となる桶狭間の戦いが、すぐそこにまで迫っていたのです。
“剣”を手に散っていく男たちと、帰ってきた遺体に美しく“紅”をさす女たち。彼ら/彼女らから願いを託された香は、はたして井伊家を守り抜くことができるのでしょうか。
「橘の化身」であり「井伊谷の小法師」である主人公・香
井伊の姫として育てられ、出家して「次郎法師」を名乗り、家督を継いで「井伊直虎」を名乗り、井伊谷を追われてからは正式に「祐圓尼」を名乗り……と奇妙な変遷を重ねた直虎。
しかし『剣と紅』においては、彼女は一貫して「香(かぐ)」という名で通っています。そのため、この記事でも特別の場合を除き、主人公のことを直虎ではなく「香」と書くことにしました。
「香」という名前自体に物語上の意味がある、「直」の字を持つ人が多く重複すると文が読みにくくなる……といった事情があるのでどうかご容赦ください。
中世ファンタジーな設定、だがそれがいい
『剣と紅』の主人公は、もちろん井伊直虎です。しかしこの本における直虎こと香は、かなりユニークな味付けをされた人物になっています。たとえば予知の力を持っていたり、橘の木の化身だったり、井伊の民に諸人神として拝まれていたり、童子のような容姿を生涯保ち続けたり。
ぶっちゃけると、最初は「ずいぶんとファンタジーな設定だなあ」と思いました。しかしだんだんとそれが奇をてらった設定ではなく、「中世日本の水深い井の国という時代と土地に馴染んでいる」と思えてくるのが『剣と紅』の面白さだと思います。
戦国時代は現代から500年も遠い過去の時代です。自然が人々に与える影響は今よりもずっと大きく、かつ神仏への信仰も今よりもずっと強かったはずです。不思議なことは不思議なことのままで据え置かれ、人々に信じられる余地が大きかっただろうと思います。
ならば『剣と紅』の主人公のように、不思議な力を持って生まれる人がいたかもしれない。人々は当然のように超常的なものの存在を信じ、自然と溶け合って生きていたかもしれない。不思議な力を持つ人を神意のあらわれとして拝んだかもしれない。そして、一寸先は闇の戦国時代において、不思議な力を持つ人が人々の精神的なよりどころになることだってあったかもしれない……と、思ってしまうわけです。
その発想を補強するかのように、『剣と紅』では政治や戦や内政の話の合間合間に、神仏に祈りを捧げる人々の姿がひっそりと差しはさまれます。大事な戦の前に、雨が降らぬ時に、子を授からぬ時に、彼らはその土地に根付いた方法で神や仏に祈るのです。
そのせいでしょうか。幼い頃から不思議なものを視る力を持ち、「ありがたいお方じゃ」と人々に手を合わされる小さな尼様の存在も、個人的にはすんなりと受け止めることができました。こういうのもアリだよね、むしろこういうの好きだな、と。
巫の女性が人々を統べるというのは、たとえば邪馬台国の卑弥呼の例を思い浮かべると納得も行きます。
実際のところ、不思議な予知能力を主人公に持たせたおかげで、後世には伝っていない空白部分がさほど違和感なく埋められている感じがありました。そもそも予知の力は根本的な解決策を与えてはくれません。あくまで方向性を主人公に示すだけです。設定こそ風変わりとはいえ、読者を興ざめさせないバランスの取り方がうまい作品だと思います。
主人公・香の設定、その背景
上記のように大胆な味付けをしつつも、香周辺の設定は伝承などに基づいてうまく練られていたように思います。個人的に土着の信仰や古い伝承を扱う物語(上橋菜穂子先生の『守り人』シリーズのような)が好きなので、とても興味深かったです。
まず、「香」という名前は古事記の「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」にちなんでつけられたものです。「非時香菓」とは永遠の命をもたらす霊薬であり、その正体は「橘の実」であったとされています。
では、どうして井伊家の総領娘に「香」の名が与えられたのか。それは井伊家が橘に縁の深い一族だからです。初代・共保が拾われたとされる井戸の横には、2本の橘の木が立っていました。「井戸の水を絶やさぬためにその橘が植えられた」、「共保がその手に橘の枝を持っていた」などの伝承もあり、橘の木は井伊家の守り神のようなものと見なされていたわけです。
つまり井伊直盛は、「井伊家を永遠に栄えさせる橘の霊薬たれ」と願い、娘に「香」と名付けたことになります。そして不思議な力を授かった香は、井戸の側の橘の化身であろうと噂され、井伊の民の信仰の対象になっていきます。
香は終盤にて、「香」という名前こそが自分をあの世に一段と近い存在にした要因の1つではないか、と推測します。
実は、橘はあの世とこの世の境に生えるとされる木です(古事記より)。また井伊家が初代から縁を持つ井戸そのものも、古くからあの世とこの世をつなぐ通り道と見なされていました。
「井戸」にゆかりを持つ井伊の血と、「橘」に由来する香という名。この2つが揃ってしまったがゆえに、香はあの世とこの世の境界に立ち、超常的なものを視る目を得た……という理屈になるのでしょうか。個人的には、あーなるほどと思いました。
そもそも香がはっきりと死の予兆を視る場所は、たいてい「井戸の側」や「橋の上」でした。井戸は先ほど書いた通りとして、橋もまた死者の魂がさまよう川をまたぐもの、つまりあちらとこちらの境界にかかるものです。
つまり香は、この世からあの世へと先ぶれ的に飛んでいく魂を、境界の上に居たせいで視てしまっていただけ……ということになります。だからこそ彼女自身にその魂を呼び戻すといったことはできず、あくまで受動的に視ることしかできなかったのです。
とはいえ、いくつかの描写を見るに、「香=橘の木の化身」であることもまた正しいと思います。ところどころで香は明らかに橘の木とリンクしているので。「橘の木=土地神」という解釈が正しいのでしょうか。神域である井伊谷の守り神が存在し、それは境界上の橘の木であり、香は境界上に生まれた子供だったから、橘の木の性質を貰ってしまった……みたいな。
視る力に比べるとさらっと流されていますが、香は10歳前後で体の成長が止まってしまったらしいんですよね。「数十年生きて死ぬときもなお童女のような体と見た目だった」という描写があります。これは、神は童子の体に降りるという言い伝えと関係があるのかもしれません。
「冬でも常緑の橘の木」、「老いと死を遠ざけ永遠を約束する橘の霊薬」といったものを思い浮かべれば、「まさに香は橘の化身である」と思わざるを得ません(同時に、人の身に与えられるにはつらい神の力だなあとも)。
使命と心のはざまで
さて、主人公の香は、「大いなる力に翻弄される人」という普遍的なテーマを背負った女性でもあると思います。
超常的な力を持って生まれた香は、若くして仏門に入って以後も悩み多き女性でした。不思議な力を授かりつつも、彼女には自分にそれが授けられた理由がわかりません。なぜなら、男子ならいざ知らず、彼女は女子だったからです。
当時は女子にできることが限られていた時代です。その中で、人の妻となり子を生むことでお家に貢献することは、武家の女子にとって常道ともいうべき道。井伊家の総領娘としての彼女が周囲に望まれていた未来も、やはり婿をとって跡取りを生むことでした。しかし、運命と神意は香にその道を選ばせなかったのです。
男と女、人と神、俗世と現世、あの世とこの世。様々な境界の上に佇む中で香は達観し、やがては己の使命に気づきます。そして、自分に下されたその使命と疎ましかった力を受け入れ、井伊家の存続のために身を捧げました。
自分ではどうしようもない大きなものに背中を押されて生きていく……というのは、個人的には好きなテーマです。大きなものは、運命だったり、時勢だったり、血筋だったり、人によってさまざまに当てはまることでしょう。
どうしてそういうテーマが好きなのかと問われれば、1つには、自分よりも大きなものを粛々と受け入れる人の姿に潔さを感じるからです。しかし、使命に従うことそれ自体に100%の満足を感じている人物には物語としてはあまり惹かれません。
グッとくるのは、やはり諦念や未練といった生々しい心を見せられたときです。すこぶる人間じみた感情を持っていることを前提に、最後は自ら納得して課された使命を果たしていく……そういう人の強さや悲しさには、いつも心惹かれるものがあります。
『剣と紅』の主人公はというと、やはり大きな運命にしたがって生きた女性でした。使命を受け入れた後の香は特に山のように泰然として動じず、粛々となすべきことをやり通します。
しかしその一方、彼女はちっぽけな人としての心を捨てることはありませんでした。奇妙な人生を送った彼女が明確な生の実感を得たのは、使命を果たしたときではなく、その感情がささやかな形で報われたときではなかったかと私は思います。
具体的には、最終章の例の再会シーンです。使命のために抑制的に生きていた香の心がふわっと浮かび上がって見えた気がして、そこまで読み進めた身としては本当に驚き、同時に労いたい気持ちでいっぱいになりました。
読み始めたときはなんとも変わった設定だと思っていたのに、読み終わる頃にはすっかり主人公の香が好きになっていました。彼女のように心を抑えて生きるキャラクターには、どうしても惹かれてします。
「剣」を手に戦い滅びゆく井伊家の男たち
直虎の幼なじみである「直親」をはじめとし、人の好い当主の「直盛」や血気盛んな老将「直平」、井伊谷の裏の実力者である「南渓和尚」……などなど、井伊家にはかつてたくさんの男たちがいました。
しかし、彼らは混乱と緊張を極めた戦国時代の最中、僧侶の南渓を除いて次々と命を落としていきます(ついでに言うと、『剣と紅』においては、彼らの多くはある者の明確な意図を以て死に追いやられています。詳しくは「小野政次との宿縁」で書きます)。
その結果、主人公・直虎やその母・祐椿尼、井伊家親族の奥山家の姉妹といった女性たちが「井伊家存続」という難題に取り組む事態になります。男たちがいなくなってしまったからこそ、奥にいる女性たちが手を尽くさなければならなくなったわけです。
井伊家の男は「美しい目」を持つ
ところで、井伊家の男たちはとある身体的特徴を持っています。それは、「美しい目」です。誰もが惹かれずにはいられない魅力的な目を井伊の男たちは持っています。
この特徴は、香の幼なじみである「亀乃丞」に特に顕著に表れています。非常に愛くるしい容貌を持っていた亀乃丞ですが、何よりもその大きな美しい目が彼の最大の魅力でした。「よくすった墨に星の砂を流し込んだよう」と形容されるその目は、長じてのちの男ぶりと相まってあらゆる女性をうっとりとさせるものだったようです。
主人公の香もやはり、直親やその子・虎松が持つその目を、井伊の女性として心から愛していました。
実際、直親・直政親子はたいそうなイケメンだったことで有名だそうです。また、井伊氏の初代・共保公についても「その容貌美麗にして眼精あきらかなり」と伝わっているそうです。つまり、容姿が美しく非常に目力のある子であった、と。
実はこの「美しい目」は、この物語の根幹にも関わる設定です。初代・共保公は井戸の中に捨てられているところを神官に拾われ、のちには貴族の養子となりました。この逸話に関し、井伊直政は物語冒頭で、「どうして出自も分からない子をその貴族は引き取ったのか」と謎かけをします。
それはかつて幼い直政(当時は虎松)が養母・直虎から投げかけられたものであり、直虎が昔幼なじみの亀乃丞と話し合った謎でもあります。のみならず、その謎は家康が虎松を召し抱えた理由ともリンクしてくるわけです。伝承を膨らませ、過去と現在をつなぐ物語全体の謎かけとして用いている点がうまいなーと思います。
また、超常的な目を持つ香と対比させる形で、一種魔術的な作用を持つ(=誰であれ惹きつける)目を井伊の男の特徴として設定したのかなーとも思いました。
すぐれた容姿は基本的には尊ばれるものですよね。飛びぬけて美しい容貌は見る者の畏怖さえかき立てることがあると言います。ピッタリな言い方が見つかりませんが、要するに美しい目=異能と捉えることも可能なのではないかと思います。
井伊の男の目の設定は、直親と政次の関係についての香の考察を読むと、妙に印象深く思えてきます。
いわく、直親はその瞳の力もあって誰からも愛される男だった。しかし、その生来の気質は弱点でもあった。直親は親しまれることになれ過ぎていて、政次からの理不尽にも思える反発を受け止めきれなかったのだ……と(p.233より)。香の洞察はたいてい冴えていますが、この部分は特になるほどなーと納得してしまいました。
大河ドラマとは違い、『剣と紅』の政次と直親は年の離れた仇敵のような間柄です。香は2人の和解を願っていました。しかし当主直盛の死後、2人の関係は悪化し、やがては破局に至ります。直親は実父や養父を小野家によって殺害されたことを忘れられず、政次もまた、凡庸な直親はとうてい井伊家当主の器ではないと見限っていました。
つまり政次には、井伊家の男の眼力(見る者を魅了する美しい目)は通じなかったわけです。その代わりに彼は、死の予兆を視る香の目に惹かれ続けました。
香自身は、自分の目と井伊の男のそれを対比的に捉え、井伊の男の目を愛している節があります。それだけに、政次のまったく逆を行く反応はなんとも面白いなーと思ってしまいました(あと、目の対比に注目するなら、直親の大きくぱっちりとした目と政次の鋭く細い目も対照的ですね)。
井伊直親――心優しき幼なじみ
「直親」(幼名:亀乃丞)と主人公・香の関係性は、『剣と紅』の軸の1つです。幼い頃に突然に引き裂かれ、許婚であったのに結ばれず、最後は死に別れ……と2人を取り巻く状況は目まぐるしく変わっていきました。直親の死後、香は彼との約束を果たすために「井伊直虎」となって井伊家の家督を預かることになります。
香が出家して俗世を離れたのと対照的に、亀乃丞は元服して子を持つ父となりました。2人の立場は大きく分かたれ、直親は童子の背丈のままの香をはるかに追い越し、大人の男になってしまったわけです。
しかし時が過ぎ去り様々なことが変化しても、2人の互いへの感情は変わることがなかったのだろうと思います。ここでいう感情とは恋愛感情ではありません。特に香について言えば、幼い頃から別れの時まで直親を異性と意識したことはなかったように思います。
そうではなくて、2人の間には純度の高い親愛の念が存在していた気がします。それはおそらく幼なじみに向けるものでもあり、血を分けた同族の者に対するものでもありました。香と直親の2人にとって、互いは無条件に愛着と思いやりを抱くことのできる人だったのではないでしょうか。
ただし、別れていた10年の間、2人はどうしようもない事情や誤解もあってそのままではいられませんでした。香は子供のまま亀乃丞を待っていてやりたかったし、亀乃丞もまた香に待っていてほしかったわけです。しかし押し寄せる現実に、二人はそれぞれの土地でそれぞれの選択をすることになります。亀乃丞が香との思い出を頼みにしていたこと、香が亀乃丞のために大人になるのを拒んでいたことを考えると、悲しい話だと思います。
井伊直盛の死後、直親は井伊家の当主として徳川家と結ぼうと考えます。そしてその企てが失敗した結果、次郎法師である香に自分の子供たちのことを頼み、お家の為に死を覚悟し旅立ってしまいます。直親がもはや自分の後をついて回っていた子供ではないことを、香は別れの時に痛感することになったのです。
しかし、直親には亀乃丞の頃から変わらない優しさがあり、幼なじみである香を大事に思い、同時に信頼する気持ちがありました。
直親は武将には向かない人でしたが、立派な井伊家の当主となるべく必死になっていました。それは周囲の期待に応えるためでもあり、自分を井伊谷に戻してくれた神意に報いるためでもありました。しかし根本的に、彼は他ならない香のために動いていたと言えます。
直親は香が力ゆえに周囲に頼られるのを重荷に感じていることに気づいていました。女子にはつらい力に苦しみ、ついには尼となってしまった彼女を楽にしたい一心で、直親は井伊家を背負って立てる男になろうと性急になっていたわけです。その焦りに足をすくわれたことは、詰めが甘くはあっても愚かとはとても言えないと思います。
直親が香に別れを告げ、香が直親の遺体に紅をさすくだりを読んでいると、2人の互いへの愛情と理解が伝わってきてやるせない気持ちになりました。結局のところは2人とも、相手に幸せに生きていてほしいと願っていたんだろうな、と。
香と直親は、「変わらないこと」を互いに求めていた2人だったのかなとも思います。結局色々なことが変わってしまったわけですが、互いへの思いは最期まで色褪せなかったのではないでしょうか。
老武者・井伊直平
大河ドラマでは、直平は基本的にとことん破天荒なお爺さんという感じでした。子供たちの死に慟哭する姿と、ひ孫の次郎法師を招いて最期の酒盛りを行う姿が印象に残っています。
一方、『剣と紅』の直平は、その血の気の多さは共通しつつも、悲壮な覚悟を胸に誇り高く散っていった老武者としての姿がとりわけ心に残りました。
香にとって、曽祖父にあたる直平は井伊家の歴史を一身に背負う存在です。今川に臣従して以降、直平は南渓を除く子供たちを次々に亡くし、孫の直盛や直親にも死なれてしまいました。まさに逆縁の連続。「あのときああすればよかった、こうすればよかった」という悔しさや悲しさを積もらせて、齢七十を超えてしまったわけです。
ずっと威勢の良かった直平が、香と南渓に向かって切々と本音を打ち明ける場面には胸が痛くなりました。直平はこの墨染の衣を着た2人に対しても、「南渓は子供のうちで一番棟梁にふさわしい人物だったのに、香はまだ16にもならない若さであったのに、みすみす家の都合で出家をさせてしまった」……という後悔の念を抱えていました。つくづく人生はままならず、後悔は尽きないものです。
井伊家の菩提寺を大きくし、いずれ仏弟子となり、子や孫に家督を譲ることが悲願だったと直平は告白します。特に後半部分はまったく叶っておらず、直平は老いてなお戦場に引きずり出されようとしています。
このくだりを読んで、これって相当に惨い話だなと強く実感しました。76歳というと、現代では仕事を退職して悠々自適な生活をしていらっしゃる方が多い年齢だと思います。それなのに直平は家の存続問題できりきり舞し、命がけで血なまぐさい戦場に向かわなければならないわけです。
しかも76歳といえば、当時の感覚で言えば非常な高齢ではないでしょうか。時代が違うと言えばそうなのですが、それでも現実の身近な人たちと比べてしまい、直平の気の毒さが思われてなりませんでした。
ただし、直平はけして気弱なままでは終わりません。彼はどこまでも井伊家のために生きる男であり、実に気骨のある武者の生き方を貫いたのです。
自分が穏やかに生きて死ねるような天命にないことを、直平は薄々知っていた節があります。それならそれでよいとばかりに、「儂の弔いは無用だ」と彼は香たちに告げるのです。儂は井伊家を守るために最期まで粉骨する、たとえ骸となっても儂の義を貫き通す、と。
この遺言、孟子の言葉を引用するなど教養と重みが感じられるもので、直平の武士としての悲嘆と矜持とがひしひしと伝わってきました。人は天の定めに抗えない、ならば自分はその中で自分の義を貫くのみ……あまりにも格好よく、そして悲しい覚悟だと思います。
直平の覚悟の詳細は、彼の死後に明らかになります。家臣の裏切に遭って毒を盛られた直平は、井伊谷ではなく川名の領地に葬られることを望んで亡くなったのです。いぶかる家臣たちに対し、香は曽祖父の考えを推測して以下のように説明します。
武田の勢いが著しい昨今、川名などの寒村ばかりの地域は今すぐにでも乗っ取られかねない。だからその牽制として、名にし負う武者である井伊直平の墓は川名にある、すなわち川名は必ず井伊家の領地であると示したかったのではないか、と。
井伊家の菩提寺を建てたのは直平ですが、彼はそこではなく、山奥にひっそりと葬られることを望んだわけです。実は直平の行動にはもう1つ意図があったのですが、ともかく、老武者としての気概と子孫へのやさしさを示した天晴れな最期だと思いました。この直平と南渓和尚のエピソードは、しっとりとした雰囲気があってかなり心に残ります。
その他、直平と言えば外せない名言があります。それは、「誰も、橋の上で同じ水を二度とは見ぬ」です(英語圏にも"water under the bridge"という格言がありますよね)。人生は「もしも」の連続、1つとして過ぎ去らぬものはない。だからこそ人は、今を必死に生きるしかないわけです。
この諦念の滲む言葉は未来が視える香の心に実感として刺さったらしく、その後彼女は折に触れてこの言い回しを用います。そしてそのどの場面にも、彼女が特別に思っていた小野政次が関わるんですよね。きれいな構成だなと思います。
有りや無しやの南渓和尚
『剣と紅』の南渓和尚は、出家の身ながら井伊家の精神的支柱であり、傑山や昊天といった強者を負かして弟子にするほどの剛の者として描かれています。香や亀乃丞の勉学の師匠でもあり、その性格は軽妙にして悠々。川名の身分の低い娘の子として生まれたために僧籍に入ったものの、実は誰よりも棟梁の器であったのに、と父・直平に嘆かれるほどの人物です。
そんな南渓和尚の口癖は「うむうむ」。そして「有無」、つまり「有りや無しや」ということをよく人に問いかけます。これは、どのようなものにも絶対ということはなく、だからこそそのあるなしをじっくりと論ずる必要があると南渓が考えているからです。
たとえば主人公の香にとっては、「なぜ自分には不思議な力があるのか、力がなかったらどうであったか」ということが生涯のテーマだったように思われます。また、亀乃丞にとってこの教えは、再び井伊谷に戻ることがかなったとき、自分が帰還できた意味を深く問うことに繋がりました。
あらゆるものを相対化し、その意味を考える。それが老子の教えに基づいて、香と亀乃丞に南渓が教えたことだったのです。
しかし南渓自身には、絶対に「無い」と言わなければならない事柄が1つだけありました。それは、「自分が井伊家の家督を継ぐ」可能性について、です。
川名で生まれ育った南渓は、剛の者として有名になり直平に実子として引き取られました。しかし実のところ、南渓は直平の子ではありません。実際は、直平の家臣の子だったのです。したがって、「井伊家の家督を継ぐ」などということは彼にとっては絶対に許されないことでした。
「自分は直平の子ではない」と南渓自身が知ったのはごく若い頃のことです。母の死の間際に、「川名に来てはならぬ」(実父と顔が似ていれば噂になるから)、「馬に乗ってはならぬ」(実父が馬の扱いに長けているため)と言い含められたことで真実を悟ったのです。
直平は剛の者である自分を実子だと思い込み、母は自分に井伊家に入ってほしいと思っている……井伊家と本当の父の家(に嫁いだ母)との板挟みになって、南渓は数十年間沈黙を守るしかありませんでした。仏門に入ることは、南渓にとってある種の救いだったのです。武士でなくなれば馬と触れ合わずにすみ、家督の問題と関わらずに生きていけるからです。
なんとも複雑な出生の秘密に、読者としても香と一緒に驚くほかありませんでした。普段はひょうひょうとした人格者である南渓だからこそ、若い頃からずっと苦悩してきた事実に重みが増します。直平や井伊家を騙していること、周囲から慕われることに、彼はもしかすると少なからず罪悪感を抱いていたのかもしれません。実の父を父と言えぬこと、故郷の川名の地を踏めないことにも多少の後ろめたさはあったことでしょう。
自分の出生に葛藤があり、仏門に入ることに一種の救いを求めていた点において、南渓は香とよく似た存在だったのかなーとも思いました。井伊家の中で南渓が香に誰より深い理解を示したこと、2人が信頼し合う無二の師弟となったことは、ごく自然な話だったのかもしれません。
とはいえ、南渓の苦悩は直平の死後にある程度解消されることになりました。上述した通り直平は川名の地に葬られることを望みましたが、直平の遺体を葬った者こそ、南渓の実の父親でした。彼は長年の主君である直平を1人で川名へと運んだ後、自らも殉死してその地で果てたのです。
この直平の計らいにより、南渓はようやく川名の地を訪れ、直平とあわせて実の父を弔うことができました。「父上」はすべてご存じでおられた、とすべてを終えた後に南渓は言います。
このくだりは読んでいてジーンときました。きっと直平は、秘密を抱え続けようとする南渓の心を軽くしてやりたかったのだと思います。父の思いに応え、直平を指して「父上」と口に出した南渓はどんな思いでいたのか……はっきりと提示されないからこそ、血の繋がらない父子の絆が感じ取れる場面でした。
「紅」を武器に命を繋ぐ井伊家の女たち
『剣と紅』においては、剣は男のもの、紅は女のものだと象徴的に描かれます。そして、男であれば紅を持ってはならず、女であれば剣を持つのはよくないという考え方も示されています。
前者については、いわゆる死に化粧を指した言葉です。男子が紅をさされるのは刀を手放したとき、すなわち死んだ後である……と香の母・安佐は亀乃丞に言い聞かせています。
後者については、桶狭間の戦いの後の香の慟哭シーンに暗示されているように思います。武家の娘は短刀を携帯するものですが、それを用いる時というのは、進退窮まって命を絶とうとするときです。よって、女子が剣を手にするのも己の死を目前にしたときだと言えるのです。
『剣と紅』は女性を主人公とする物語であり、作中には何人もの女性が登場します。そして彼女たちの武器は剣ではなく、自らを飾る「紅」です。
とはいえ、主人公・香は剣も佩かず紅も刷かず……という数奇な人生を送った女性でした。また、この上なく女らしいと言われる「きぬ」は、あるときからは神意に従い、女性としてはあまりに浮世離れした生き方を選びました。どちらも当時の典型的な女性とは言い難いところがあります。
よってこの項では、いかにも戦国期の武家の女性らしい登場人物について触れたいと思います。以下でとり上げるのは、香の母・安佐と、井伊家の親類である奥山の姉妹たちです。
主人公の母・安佐の苦悩
井伊直虎の母は、「祐椿尼」という出家後の名で知られています。彼女は今川の目付であった新野家から井伊家に嫁いだ女性でした。
『剣と紅』での直虎の母は、「安佐」という名前です。大河ドラマにおける直虎の母・「千賀」は、良き妻であり良き母である気丈な女性として描かれています。しかし、安佐は少し違います。
夫や子を思う心は変わりませんし、遺体の死に化粧をして亀乃丞に発破をかけるような武家の女子らしい女性ではあります。しかしベースとなる性格言動は、「嫁ぎ先で男の子を生めなかった」前提を重視して構築されているように感じました。個人的には、これはこれで納得のいく捉え方だなと思います。
先述したように、安佐は今川の目付である新野家出身の女性です。ともすれば緊張が走りがちな家同士を繋ぐ役割を負い、安佐は井伊家に嫁したわけです。新野家は今川の家臣ながら井伊谷に馴染んだため、安佐の当初の使命は立派に果たされたと言えます。
しかし1つだけ、かつ重大な問題があって、安佐は男の子を生めませんでした。1人だけ授かった子は女の子だったのです。直盛は新野家に気を遣って側室を置かなかったため、結婚して10年経っても血を分けた跡取りの子を得ることはできませんでした。
男子を生めない女性の立場は、当時は非常に心もとないものだったようです。結果として安佐はある種の鬱屈を抱えた女性になってしまいます。彼女の鬱屈は、健康に良い薬や食材の愛好と一人娘である香に対するやや過度の心配性という形をとって表れました。
自分が苦労をしたぶん、香が立派に子を生める女性になれるかどうか安佐は心配でたまらないのです。だから健康食材をはるばる駿府から取り寄せて食べさせ、薬入りの茶を呑ませ、肥えさせるために何かと菓子を食べさせようとします。夫の直盛も負い目があるので、安佐の薬好きをやめさせることはできません。
香自身は、母を愛しつつもやや複雑な眼差しを向けています。安佐の苦しみをわかっているからこそ、とりたてて母の言いつけには逆らいません。しかし、「自分も成人して夫を持てば母のようになるのだろうか」と内心では思ってしまうわけです。香にとっての母というものの一面が端的に示されているのは、次の一文だと思います。
「安佐が気鬱の病になったのも、香の体をことのほか案じて薬ばかり飲ませるのも、いつも父の前で小さくなっているのも、すべて跡取りをあげられなかったというひとことに尽きる」(p.111)
剣と紅
もっとも、安佐はけしてひどい母親ではありません。そのことは、香の出家前後の行動によく表れています。
たとえば亀乃丞がいなくなったあと、安佐は香の縁談相手を探すのですが、その際には進捗状況を香につまびらかにしました。事前に何も知らされぬまま嫁がされた自分の経験から、娘をそんな目には遭わせたくないと思ったわけです。心のままにはいかない武家の結婚だからこその情け深い計らいだと思います。
また、なかなかまとまらない香の縁談に困った安佐は、小野家の熱心なアピールに折れ始めます。これは「今川の近習上がりの京かぶれの男と娶せられるよりは、幼なじみの政次を夫とする方が香にとってより幸せではないか」という判断ゆえでした。
加えて彼女は、井伊家出身のれん(井伊御前/井伊直平の娘)の娘である「瀬名姫」(のちの築山御前)が、はるばる岡崎に嫁げと命ぜられたことを気がかりに思っていました。「総領娘の香が北条あたりの遠国に嫁ぐようにと命じられる」という最悪の事態を思えば、井伊家家老である小野家から婿をとった方がどれだけか安心です。
「娘の婿がよい若者であればいい」、「娘には(空間的にも家の繋がり的にも)あまり遠くに嫁いでほしくない」というのは母親らしい心理だなと思いました。当時は物騒な上に女性の移動が難しい戦国時代なので、安佐の判断の変化にも納得がいきます(もっとも、安佐の母親心理をこれでもかと刺激する情報工作を行ったのは当の政次なわけですが)。
個人的に心に残ったのは、直親の帰還後、「還俗して直親と結婚しないか」と安佐が香に打診する場面でした。
本当のところ、直親は後ろ盾を得るために奥山家の娘を娶らなければいけない状況にありました。当主の直盛も、親戚同士の結束のために娘の香に還俗を勧めるわけにはいかなかったのです。安佐もそのことは承知しつつ、それでも娘のために尋ねずにはいられなかったんですよね。今からでも遅くはないから、還俗して許婚と結婚し、女として普通に生きてみないか……と。
そう提案するに至った安佐の心情や娘への思いを思うと、なんとも切ない気分になりました。大事な一人娘が、若い身空で妻となる道も子をもつ道も捨ててしまうというのは、親としては本当に寂しくやりきれない思いがあったのだろうな、と。安佐はとりわけ香が嫁いで母となれることをずっと昔から願っていたわけですから、尚更娘が気の毒でならなかったことでしょう。香が親不孝な自分を申し訳なく思うくだりと併せて、この世のままならなさが思えてなりませんでした。
妻としての苦悩、母としての苦悩など、安佐は当時の女性につきまとう悩みからなかなか自由になれない女性でした。それでも彼女は、井伊家のために生きる娘を影ながら支え続けた、やさしい母親として描かれていたと思います。
血を繋ぎ縁を繋ぐ奥山家の姉妹たち
安佐が「女子であることのネガティブな一面」に比重を置いて描写された人物だとすると、奥山家の姉妹たちは「女子であることのポジティブな一面」を捉えて描かれた人たちだと思います。
奥山家は井伊家の親類の中でも特に力のある家系です。もともと井伊家とその親類は、血族の縁を何代にもわたって強固にすることで結束を図ってきました。たとえば、直親は父を亡くしていたために、井伊家の次期当主になるにあたって親族の力に頼る必要がありました。帰還した直親が元許婚の香ではなく、奥山朝利の娘を娶ったのはそのためです。
『剣と紅』では、奥山朝利に4人の娘があることが示されます。長女は三河の古豪・鈴木家に、次女の日夜は井伊家に、三女の布津は井伊家の親戚である中野家に、そして四女の輝は井伊家の家老である小野家に嫁いでいます。さらに付け加えるなら、朝利の妹は今川の目付である新野左馬助(安佐の兄)の正室でもありました
つまり、奥山家の女性たちを中心に、6つの家が広く親戚関係を結んでいたわけです。当時の武家の結婚は家同士の外交に等しいわけで、奥山家から他家に伸びる5本の線を想像するとシンプルにすごいなあと感じてしまいます。
上記の通り、4人の娘のうち日夜・布津・輝は井伊谷に嫁ぎ、姉妹同士で頻繁に顔を合わせては密に連絡を取り合うことになります。これは単純に日々の慰めのためでもありますが、知り得た情報を共有し現状を確認することで、夫の家同士に無駄な摩擦を生じさせないようにするためでもありました。
戦国時代においては、姉妹同士が嫁いだ先で敵味方となって争うこともない話ではありません。現に小野玄蕃(政次の弟)に嫁いだ輝は、その可能性を案じ、直親に嫁いだ姉・日夜のもとへ足しげく通っている節もあったようです。
奥山姉妹にとっての悲劇が始まったのは、実家や婚家の男たちが大勢討ち死にした桶狭間の戦いからです。この戦で夫の小野玄蕃を亡くした輝は寡婦となり、幼い息子の亥之助と2人残されてしまいます。
その後の展開を俯瞰するに、直親の家老であった玄蕃が亡くなってしまったことは後々に響く痛手だったのかもしれません。井伊直盛の死後に直親と政次の対立が先鋭化したとき、ストッパーとなる者はもはやいなくなってしまいました。
そして、先手を打つ形で政次が直親の殺害を図ったことから、悲劇は輝の姉である日夜や布津にまで及んでいくことになります。まず日夜が夫の直親を亡くし、次いで布津が夫の中野直由に先立たれることになるのです。
井伊谷に嫁いだ3人の姉妹は、たった数年のうちに幼い子を抱えて寡婦となってしまったわけです。いかな戦国時代とはいえ、これを悲劇と言わずしてなんと言うのでしょうか。夫の死後に振りかかった様々な問題に汲々とする輝を気の毒に思い、香はこんな感想を抱きます。
「残されるのはいつも女と子だ。悲しみに耐えるのもいつも女の役目だといわんばかり」(p.207)
剣と紅
しかし、奥山の姉妹が存在感を増して活躍し始めるのは夫の死以降のことです。彼女らは協力して遺児を育てつつ、親族の結束を固めるためにそれぞれの家で役目を果たし続けます。現に幼い子供がいるので、悲しんでいるだけでは終われないんですよね。
家督を預かり井伊直虎を名乗る前後から、香が内々に頼りとしていたのもこの奥山の姉妹たちでした。「おなごにはおなごの戦いがある」という母の言葉を思い出した香がまず考えたのは、井伊谷全体に強い縁故を持つ奥山家の娘たちの力を借りることだったのです。
姉妹らもまた、井伊谷の小法師であり井伊家の総領娘でもある香を頼みとし、虎松を守ろうとする彼女を支え続けました。奥山の娘たちは姉妹のネットワークを活用し、各家の現状や三河に嫁いだ姉からの情報を香に提供することができたのです。
ここで注目したいのが、直親の正室であった「日夜」です。武田と徳川の動きが活発化してきた頃、香は虎松を守るための最後の策として、日夜の2度目の輿入れを提案します。輿入れ先は徳川家康との繋がりを持つ豪族・松下家です。
日夜はこの提案に驚き、当初は納得できない素振りを見せます。彼女の夫の直親が密通を疑われて今川に粛清されたとき、家康は何の救いの手も差し伸べてはくれなかったからです。しかし、香の説得を最後まで聞いた彼女は虎松のため、井伊家のために再婚を承諾します。
香が手をついて日夜に提案をし、日夜が笑って嫁いでいくまでのこのシーンは、読んでいてかなりドキドキしました。自分にもしものことがあったときのために打てる手はすべて打っておきたい香の覚悟、女子として自分にしかできない役目を果たそうとする日夜の母としての心意気、そして香と日夜の間のたしかな信頼。
直親の正室であった日夜に十分な敬意をはらう香と、井伊家の家督を預かる香を心から信頼する日夜の関係性には大いに心打たれました。相手にしかできない仕事を互いに託し合い、お家の大事のために協同して力を尽くす2人はなんとも心強く潔くて素敵でした。
また、日夜がすでに直親ときぬの関係を知っていて、しかし取り乱さずに受け入れていたことも良い意味で意外でした。日夜はもともと気弱な女子であり、かつては直親と香の関係を気に病み、直親が亡くなったときはショックのあまり起き上がれず夫の遺体を整えられなかったこともありました。その彼女がこうも毅然とした女性になったとは……と読んでいて感慨深かったです。
ここで、美しく紅をさして2度目の嫁ぎ先へ向かう日夜の言葉を引用します。
「(中略)おなごにはおなごの戦があり、勝ちがある。嫁いだ先の夫同士を結びつけられる力をもっているのです」
剣と紅
「輿入れはおなごのいくさ。紅はおなごの剣。無為に生きる暇などどこにもない」(p.324)
うーん、カッコいい。紛れもない名言ではないでしょうか。特に引用2つ目の言葉にはハッとさせられます。女性に限らず、過去のどんな人も何も為さずに生きていたはずはないんだろうな、と。
この作品は女性をピックアップしているとはいえ、そこまで露骨に女性であることを持ち上げてはいません。もちろん「戦国時代」と聞いてスルーされがちな女性の関わる場面に丁寧に光を当ててはいます。しかし、作者の眼差しはわりあい現実的です。縁談工作を仕掛けられても、男たちが戦場でバタバタ死んでも、『剣と紅』の女性たちは基本的には趨勢を見守り耐えるしかありません。
女子が力を持った例として、作中では今川の寿桂尼が挙げられています。しかし彼女は、公家の娘であり正室として嫁いで跡取りの男子を生んだことも同時に示されています。「女子が発言権を持つのはかくも難しい」ということが、主人公の香の思考を通して提示されるのです。
女子であることの無力感に香が長く苦しんでいたことからしても、『剣と紅』はその立場の弱さを度外視することなく、当時の女性を描いているように思います。
とはいえ、そういう書き方だからこそ、この作品の女性の生き方には惹かれるものがありました。「無力だ、だから女子は悲しくてつらい」で終わるのではなく、「無力かもしれないし悲しいことも多い、しかし女子にしかできないこともある」というしなやかで前向きな発想の転換が、作品の底流にあるからでしょうか。
「おなごが政略で他国に嫁ぐのはただの悲劇ではない。哀れ、悲劇で終わらせてはならぬ。男が剣で断ち切ったものを血でつなげるのはおなごだけよ」(p.220)
剣と紅
たとえば上記の安佐の発言は、『剣と紅』を象徴するセリフだと思います。正負の面を織り交ぜて女性を描き出す姿勢が見事です。
小野政次との宿縁
家督を預かった香と滅亡寸前の井伊家にとって、常の敵は家老の「小野但馬守政次」でした。
井伊家の家老ながら今川の目付でもある政次は、目付として、あるいは保身や個人的な野望のために井伊の男たちを次々に葬っていきます。遺された井伊家の縁者や家臣に恨まれぬいた彼を待っていたのは、2人の子ともども処刑されるという悲惨な末路でした。
香は政次の父・政直のために叔父2人を亡くしたのを皮切りに、許婚・亀乃丞(のちの直親)との仲を裂かれます。政次の代には直親を讒言で殺され、祖父や伯父、親類を軒並み死に追いやられることになりました。井伊直虎として家督を継いだ香を地頭職から追い落とし、一時的に井伊谷を乗っ取ったのもやはり政次です。
まさに香にとって、そして香が守ると決めた井伊家にとって、小野家と小野政次は宿敵と言うにふさわしい存在だと言えます。
しかし不思議なことに(かつそれこそが『剣と紅』の面白いところですが)、香が終生特別視し、おそらくは異性に対する情を抱いていたのも小野政次なのです。どれだけ政次が非道を行っても、香は不思議と政次を嫌うことなくずっと心に留め続けました。政次にとっての香もやはり畏怖と愛憎の対象であり、最期まで引きずり続けた女性であったように思われます。
香と政次を結ぶ奇妙な縁
井伊家の初代が拾われた場所に「井戸」と「橘」があること、主人公の香が「井戸」と「橘」に縁を持つ存在だったことは先に述べました。
実は小野家もまた、「井戸」と「橘」に縁を持つ一族です。前者は井戸から冥界に行き来した逸話を持つ小野篁の子孫ということから、後者はかつて橘姓と橘紋を用いていたというところからです。
加えて、香と政次の間にはもう1つ奇妙な縁がありました。それは香が政次の傍にいつも視ていた「白い細長い鯉」です。この不思議なものは政次がいるときにしか視えない、香にとってもよくわからないものでした。死の予兆ではないものの「よくないもの」ではある。そう判断した香は、政次本人ではなくこの「白い鯉」を避けるために政次からの求婚を拒否します。
この白い鯉、正体が明確に提示されないんですよね。政次が亡くなった後には政次の魂として登場したり、「政次とどういう関係にあるのか?」、「何を暗示するものだったのか?」が不明瞭です。とりあえず以下のように考えてみました。
・鯉=政次の野望のあらわれ:鯉といえば真っ先に「登竜門」の故事が思い浮かぶ。鯉は政次の野望や心からの望みを示すものだったのか。
・鯉は「井伊家」と「香」を欲しがっていた:鯉はいつも龍潭寺の方、井戸の方へ消えていく。井戸のそばには橘がある。「井戸と橘」といえば、「井伊家」と「香」の象徴。つまり政次の欲しいものはこの2つだった?
・鯉は冥界に通じる井戸へと還ってゆく不吉なもの:白い色もこの場合は不吉。即時的な死の予兆ではないにせよ、政次の運命・末路がよくないということのあらわれだったのかも。だから橘の木は香に政次を退けさせた。
たぶん香が名前から存在まで「橘」を象徴するキャラである一方、政次は「井戸」に象徴されるキャラなのだと思います。家康の最後の総括によれば、「井戸=野望の象徴」らしいので、政次のイメージにはぴったりかな、と。
橘は井戸を枯らさないために植えられた、古事記で「非時香菓」を探しに行ったのは「田道間守(たじまもり)」、政次は死を忌み嫌う&香は不老不死を約束する橘の霊薬になぞらえられる……など、2人の関係性を補強する細かい描写は他にも色々とあります。
以上より、『剣と紅』は香と政次の不思議な縁を主軸に据えていたんだろうなと感じました。
小法師かつ女性であるがゆえに政次とすれ違う香
一応ですが、香と政次が明確にお互いへの好意を示している場面はありません。「好き」とか「惚れた」とかはまったく言わない2人です。ただ、端々のほのめかしや恋歌、政次の処刑前後の描写を見ていると、互いに特別な感情があるようにしか見えないんですよね。以下はそういった印象に基づいた話です。
ざっと物語全体を見ると、香と政次はどうあっても味方同士にはなれない関係だったと思います。端的に言ってしまえば、香は「井伊谷の小法師」であったがゆえに政次と結ばれなかったし、男子でなかったがゆえに政次を止めてやれなかったのではないかと感じました。
香は井伊家を救うことを宿命づけられた存在でした。しかし、領民や身内に「井伊家と井伊谷をお守りください」「ありがたやありがたや」と手を合わされるたび、幼い香は途方もない重圧を感じざるを得ませんでした。
「香さまなら救ってくださる」という無邪気な信頼に対して、「そんな大それたことが女子の自分にできるのか?」と内心で思っていたからです。彼女が仏門に入ったのは、自分に課せられたものの理由を問い、救いを求めるためでもあったのだと思います。
香が小法師の力を受け入れたのは、死にゆく直親と祖父・直平に肉身としての理解と励ましの言葉を遺されたからでした。彼女は天命を受け入れ、自分を信じてくれる人々の期待に応える道を選び取り、井伊家を背負って立つ覚悟を固めたわけです。その結果、井伊家はぎりぎりのところで命脈を保ち、井伊谷も致命的な打撃を免れました。
香は女子の身ながら井伊家を救うことに成功したと言えるでしょう。死んでしまった男たちも、大出世を果たした直政の存在によって報われたと言えるかもしれません。
しかし政次だけは、香には本質的に救うことのできない人間でした。「小法師」としても「女子」としてもです。そのどちらか片方だけならまだ可能性はあったのでしょうが、両方が揃ったことで道が潰えてしまったという気がします。
まず、香に政次の求婚を拒ませたのは香本人の意思というよりは橘の木(=香に小法師の力を与えた存在/神意?)でした。まるで橘の木に操られるようにして、彼女は剃髪して政次をはねつけるという強硬手段をとったわけです。
加えて香は政次のそばにいつも「白い鯉」を見ていました。それをよくないものだと感じた香は、政次と結婚してはいけないと判断するに至ります。つまり、香の意思決定の段階においてもやはり小法師の力が政次を遠ざけました。
誰よりも香の小法師の力を信じて彼女を欲しがっていた政次にとっては皮肉すぎる結果と言えるでしょう。かくして井伊家と小野家は血筋を交える(唯一の)機会を失します。
また、政次にとっての重要な転換点だったと言えるのは桶狭間の戦いです。その戦までの政次は、まだ井伊家に忠実な家臣であり続けたいと考えていた節があります。しかし当主の直盛が亡くなったことで、跡取りの直親と家老の政次の対立を抑えられる者はいなくなってしまいました。
直親の自分へのあからさまな対決姿勢を認めた政次は、直親の家老であった弟・玄蕃の戦死もあいまって、小野家が排斥される可能性をひしひしと感じたことでしょう。実際その後の直親は、政次を切り捨てる前提で徳川家に接近しようと試みるわけですから。
同時に、「今川の屋台骨が揺らいだ今、凡庸な直親ではとうてい遠州を襲う戦乱を乗り越えられまい」という冷静な判断も働いたはずだと思います。
政次が香に「井伊家の家督を継いでくれ」と必死に迫ったのは、上記の理由があってのことでした。政次があれだけ荒れた心のうちを見せたのは、この場面のほかは地頭職罷免のシーンだけだったように思います。
この場面で「我ら井伊一族」と政次が口にしているのは重要なポイントです。第一に小野家のためではあるにせよ、彼の意識はまだ井伊家とともに自分たちも助かりたいという次元にあり、そのために小法師である香に救いを求めていたことがわかります。
しかし、香は政次の懇願を拒絶します。香自身は直親を凡庸と断じる政次の認識の正しさに気づいていました。しかし現に直親という跡取りがいる以上、女子である香が家督を継ぐというのは非現実的な話です。そしてそれ以上に、父を失ったばかりの香は、直親の下で井伊家が危うくなるという自分の直感を信じたくなかったのだと思います。
この場面でのすれ違いは、「男におなりくだされ」という言葉に象徴されています。香がそもそも男であれば、政次は逆心を起こすこともなくすんなりと従ったことでしょう。またこの時点で香が家督を継いでいれば、やはり政次の離反は起こらなかったのではないでしょうか。
しかしながら、香は「できぬ」と再び政次を拒みました。いくら小法師の力があっても彼女は女子だったからです。その結果、政次は井伊家と対立する道を選び、この夜を境に修羅の道を歩んでいくことになります。
まとめると、香と政次にとって2回のターニング・ポイントがあったのではないかと思います。そのどちらにおいても、香は「井伊谷の小法師」あるいは「女子」として政次を拒みました。
そして2回目に拒まれたとき、政次は小野家存続のために謀略と暗殺を是として生きていくことを決めたわけです。
井伊谷の小法師としての務めを果たした香は、「紅も刷かず、剣も持たず」と自分の人生について述懐しているんですよね。そこでふと、紅も刷かず(=求婚を拒んだ)、剣も持たなかった(=男でもなかった)から、二重の意味で政次だけは救ってやれなかったのかもしれないなあ……と私は思いました。
香にとっての政次という男
上で述べたような2人のすれ違いの何が悲しいかといえば、香にとっての政次はどうでもいい人間でも憎らしい人間でもなかったという事実です。
香は子供の頃から不思議と政次のことが嫌いではありませんでした。政次の才覚を認めていたし、他の人間とは違うものを相対して感じることもありました。その「嫌いではない」という感情は、親戚連中を政次に殺され、明確に対立することになってもなぜか変わることはなかったようです。
香はいつでもありのままの政次を認め、彼の生き方を受容していました。求婚を拒むために出家したときも、地頭職を追い落とされたときも、香が政次に対して抱くのはいつも憎しみではなく哀れみでした。
井伊谷の小法師としての香のすべてが井伊家のために捧げられていたことは確かです。しかしこれはあくまで私見ですが、わずかに残った女性としての香の心は政次ただ1人に向けられていたような気がします。それがいわゆる恋愛感情であるかどうかは置いておくとして。
というのも、香は基本的にすべてをフラットに見ている女性でした。その達観した眼差しは予知の力ゆえでもあり、さっぱりとした気性ゆえでもあったのでしょうか。
たとえば許婚だった亀乃丞が他の女性と結婚することになったとき、香はもはや仕方のないこととして何一つわがままを言いませんでした。家中の男たちがことごとく亡くなる中、香のその悲しいまでの潔さはより研ぎ澄まされていきます。政次が伯父らを謀殺したと知っても、彼らの死を予期していた香はまったく激することがありませんでした。その心境について、以下のような説明があります。
「本当のところは香にとってどんな身近なことも、この橋の上で水を見送るようにあっけないものでしかない。(中略)先のものが視えていたがゆえに、人よりも早く今が去るのだろう」(p.288)
剣と紅
しかし、香は政次に対してだけは少し態度が違います。そのことは、同じく香が結婚するかもしれなかった相手である直親への態度と比較するとよくわかります。
政次と直親は、どちらも香以外の女性と結婚し子供をなしました。しかし香は直親との仲はスッパリと割り切っている一方、政次のことは「夫婦となりかけた相手」として折に触れて意識していた様子があります。
また、直虎と名乗って政次と腹の探り合いをする時期に至っても、香は政次が非道の道を突き進むのを止めたいと思っていたようです。政次が明確に牙をむいて香を放逐しようとしたときも、香はやはり制止の言葉をかけています。政次を殺したくなかったからです。
この場面では、20数年かけてようやくの思いで受け入れた小法師の力を否定するようなことさえ言います。政次の末路がよくないものになると小法師の力で視えている、だが政次がもし死なないでいてくれるならば、この小法師の力がインチキであってもかまわない……という思いがあったようです。ここだけを切り取っても、香にしては珍しい執着が政次に対して働いていることは見て取れます。
わりと決定的だと思ったのが、政次の処刑シーンから蟹淵での死後の逢瀬のシーンまでの流れです。親類の死にも「山のように」動じなくなっていた香が、政次の処刑の報を聞くやいなや一心に走っていくんですよね。子供のようにがむしゃらに、「水のように走る」わけです。
香が「水のように走る」シーンは何度かありますが、そのうち重要なものは2つです。1つは、政次との結婚が決まり、亀乃丞を思って逃げ出したとき。そしてもう1つは、政次の処刑が決まり、処刑場へと駆けつけるとき。そのどちらも大人になってからの場面ということがポイントです。
この2つの場面において、香はみずみずしい感情を溢れさせます。それもそのはず、大人になった香が走るときというのは子供の頃のままに、エモーショナルに思いのたけを溢れさせるときだからです。
そして20年近くの時を経て、今度は政次から逃げるのではなく政次のもとへと走っていく尼姿の香は、こんなことを思います。
「せめて息絶える前に一目、生きている政次を見たい」(p.339)
剣と紅
物事に執着しない香からこんな吐露が出てくることに初見はびっくりしました。びっくりしつつ、「なんだよそれ~遅すぎるって~でもここまで来ないと立場上素直になれなかったのか~~」と泣けてきました。
香が政次に特別な思いを向けているのは薄々わかっていました。でもこんなに不意打ちなタイミングで、この本にしてはわかりやすいカミングアウトが来るとは思わなかったんですよね。ふわっと浮いた香の感情と合わせて読者としても感情が浮き立ったというか、涙腺にくるものがありました。
2人らしい別れ方をした後、香は霊となった政次に再び会いまみえることになります。ここでは第三者であるきぬの目を通じて、政次に相対する香の姿が描かれます。
注目したいのは、政次に語りかける香の声が、「みずみずしさに満ちていた」ことです(p.359)。『剣と紅』において、女性のさがは「水」として表現されます。「不動の山のよう」と言われる香にも、当然ながら女性としての感情は存在します。そしてきぬがこの場面で意外に思ったように、その感情がまれに溢れ出すこともあるわけです(上記の「水のように」走るシーンもそれに該当するのか)。
香がなぜ政次に会いに来たのか。それは、「(政次が死んだら)紅を塗ってやる」という幼い時分の約束を果たすためでした。どこか楽しげに政次と語らう香を見、きぬは「このような形で主人の長年の想いが成就したことを悟」ります(p.361)。
この「長年の想い」というのが、ただ単に「遺体に紅を塗りたい」という形式上のものでないことは明らかだと思います。
このシーンにおけるきぬは、香を客観視し、読者に向けて香と政次の考えていたことを補足するために存在すると思っています。もともときぬはオリジナル性の強いキャラということもあるので、この場面におけるきぬの言葉は作者の意図をわりあい正確に伝えていると思っていいのではないでしょうか。
香は夫婦となるはずだった直親および政次と、それぞれ約束をしていました。直親との約束は「井伊家を繋ぐこと」であり、それは香の使命と一致することでもありました。香は虎松を徳川家に仕官させ、その約束をきっちりと果たしたのです。
しかし上でも書いたように、香が自身の異様な生を肯定できたのは政次との約束を果たしたときではなかったかと思います。奇しくも「嫁がず、産まず」というのは、地頭職を罷免されたときに政次に言われた言葉とリンクしているようでもありました(p.362)。
ここで取り上げなかった場面も含め、もろもろの描写から考えるに、香にとって政次はやはり特別な男だったのだろうなと思います。
政次に対してだけは香はホントに悟ってないなあと思いつつ読んでいました。「自分は政次がこういう男だとずっと知っていた(だから哀れまない)」は、ある意味「自分だけはこの男をちゃんと知っている」のようにも読めてすごく女を感じたり。単純な恋愛感情にくくれないとしても、香の一番人間くさい感情が政次に対して割かれていたことは間違いないのではないでしょうか。
政次にとっての香
一方、政次にとっての香は、大枠は「執着の対象」であるとはいえ内実はちょっと複雑な気がします。「小法師」として見ていたのか「女子」として見ていたのか。おおむね前者だと思うのですが、作中で意味深に提示される恋歌を見るに、後者も含んで執着していたのかなという気がします。
イメージ的には、求婚までは「女性」として見ていた部分が大きかったと思うんですね(紅をあげようとしたし、明らかに聡い女子がタイプっぽいし)。それが文字通りバッサリと振られて、以降はおおむね「井伊谷の小法師」として畏怖多めで見るようになります(香の力を越えたいとも思ったり)。
そして地頭職罷免事件で揺り戻しが起こり、そこから処刑までは香を女性として見ていたのではないかと思います(「あなたさまは、ただのおなごだ」が象徴的。求婚シーン後はなかった「目に熱がある」という描写も罷免時に復活する)。
視点人物ではないので、特に大人になってからの政次の考えは読みにくいです。しかし禰宜の家系から正室を迎えていたり、手に入らないものの方が多いと香にほのめかしたり、相変わらず歌を詠んでみせたり、弟たちを頼って落ち延びることもできたのに井伊谷にとどまったり……といった描写を見るに、香を引きずっている感じがアリアリな気がします。
一言で言うなら、香は政次にとってのファム・ファタール(運命の女)なんでしょうね。政次は香の力に畏怖しつつ惹かれるものの、どうしても相手を手に入れられないどころか破滅していくわけなので。
きぬは政次の心理について次のように推察しています。「一番欲しいものは香、それが手に入らなかったから、二番目に欲しい井伊谷を手に入れようとしたのでは」、と。
政次は基本的に小野家の繁栄のために生きていたところがあるので、一概に香への感情だけに突き動かされていたとは言えません。とはいえ、根本に香への執着があったことは確かです。だからこそ束縛の消えた死後に、ああいう形で香と再会する場面が実現したのだろうと思います。
香が政次のパーソナリティーを誰より理解したのは小法師の力ゆえではないと、政次は知っていたのでしょうか。「そなたはただ生きただけだった」と香に言われたことは、少なからず彼の救いになったのでしょうか。
香にしても政次にしても、当時の人らしく割り切り、家を最優先に考えて動きます。しかし当人たちも意識しているのかわからないような割り切れなさは同時に存在して、それがふと端々の言動ににじむんですよね。きぬが詠っていた「添うてもこそ~(奥手にならずに恋をするべし)」を実践するのが、本当に難しい時代だったのだろうと思います。しかし、自分の心に抑制的に生きている二人だからこそ、節目節目の会話には、いつもぐっとくるものがありました。
幼い日の2人について
ところで、若者時代の政次は調子に乗った感じでわかりやすいなーと思いました。成人間近とはいえまだ9歳の香に恋歌を詠みかけたりと、野心バリバリ。
個人的に興味を引かれたのは、紅を差し上げたい云々の場面でした。二人の最後を暗示するようなシーンでもあり、成人した政次とまだ子供の香の噛み合わなさが可愛らしくもあります。
あの申し出に、「将来的にあなたに求婚しますよ」と政次は含ませたのだと思います。香は遠回しな言い方にクエスチョンマークを浮かべつつも、言外の思惑は感じて震えるわけです。
また、「そなたが死んだら、わしが首に紅を塗ってやろう」(p.122)は、その後の政次の反応を含めてツボでした。香は亀の意趣返しのために、政次を脅かしてやるつもりで上のように言いました。でも、この時点では気づいていないんですよね。男の遺体に紅をさしてやるのは、基本的にその家の奥の女性の仕事だということに。
「首に紅塗ってやる=お前と同じ家に入ってやる=お前と結婚してやる」と解することも可能なわけで、絶句しつつも、政次が思わず笑い嬉しそうにするのも当然と言えます。香が相変わらず「?」状態で政次を見ているのも面白かったです。もしかすると、未来が視える香にこういうことを言われたから政次はのちのち積極的に縁談工作を仕掛けに行ったのかもしれません。
書きたいことを好きに書いていたら長くなりました。基本的には、2012年に文藝春秋から出版された版を参考にしています。
とりあえず締めの言葉として言いたいのは、「『剣と紅』面白かった!」です。それに尽きます。名作は世に数多くあれど、フィーリングにバッチリな本ってあまりないと思います。そういう本は往々にしてジャンルを問わずに存在しているので、見つけようと思って見つけられるものではないです。だから、大河ドラマの縁で『剣と紅』を読むことができてよかったです。嬉しい体験でした。
※今回の記事の中でご紹介したもの
・『剣と紅』(ハードカバー版)
・『剣と紅 戦国の女領主・井伊直虎』(文庫版)
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